2017年05月08日
日米友好の原点は下田です。

「日米友好の原点」
写真はアメリカ艦隊提督マッシュペリーが下田条約締結のため
下田の河口から上陸しましたがその上陸地の胸像です。
ちなみに船大工の娘お吉の生家もこのすぐ近くでした。
ペリーは水兵300人軍楽隊を連れて上陸しましたが当時の
下田町民は驚いたことでしょう。
随行の画家ヨハネの書いた絵が遠征記に描かれています。
そもそも横浜から遠く下田を開港地にしたのは交渉を遅らせる
目的があったためとも言われています。
吉田松陰は江戸藩邸から久里浜、熱海、伊東を経て5日できています。
また、ハリスは天城越えで箱根を越し江戸城まで15日も掛かっています。
その間下田では「欠乏所」が出来水兵との物々交換や船で足らないもの
などの売り買いも始まりました。
幕府ではほかの開港地では外国人との触れ合いは禁止でした。
自然発生的に始まった交流を見てよその開港地でも許可が下りました。
歴代大使は来ていますが、マンスフィールド大使は任期中毎年お見え
でしたが、日米友好の地は下田であると言われました。
外務省や日米協会も力を入れているお祭りです。
Posted by いそさん at
08:22
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2017年02月06日
二月七日は北方領土の日。
須崎で言う処のパラ西(雨がパラと降り西風が吹くこと)が吹き
海は大荒れで漁師はお休みです。
一雨ごとに春がやってきますが、まだ二月で風は冷たいです。
しかし、路地の河津桜は本場よりも早く咲き始めましたが如何にせん
バラバラですので迫力には欠けます。
さて、下田の寺ではロシアとの日ロ通好条約、アメリカとの
日米和親条約等の日本国にとって大事な条約の締結をした地でもあります。
幕末時、大きな建物はお寺さんだけだったのでしょう。
そのお寺にも格付けがあるようで、将軍様の泊まるお寺、大名クラスの寺
毛唐人との交渉の寺と分けていたようです。
柿崎の玉泉寺はハリスの公館で日本で最初のアメリカ領事館になりました。
北方四島との国境は安政元年(1854)下田の長楽寺で締結しました。
また、事前の交渉会場はほかの寺で行っています。
当時、下田には幕府全権川路聖謨とロシア使節海軍中将プチャーチンとの
数度の交渉をしております、今で言う外務大臣級が来ていました。
このあと、交渉中には安政の大津波があり伊豆の戸田で日本最初の
洋式軍艦を作りこれが日本の造船の始まりとも言われます。
この時期、下田は風待ち港として大いににぎわいました。
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12:41
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2015年07月04日
須崎の歴史物語。
御影石(みかげいし)須崎バス停のロータリーには江戸城築城に
使った御影石が残されている。
1950年徳川家康は江戸城の本丸、西の丸を築城した。
伊豆の稲取、伊東、宇佐美なども石垣の石を運んだが須崎からも
石を切り出している。
写真のこの石は御影石で固い石なので石垣の角石として使用されました。
御影石は兵庫県小豆島付近から江戸に運ばれたものです。
江戸城改築は三代将軍家光の時代まで30年も続きました。
その間須崎港には嵐で舫いが取れたのか、あるいは事故かで港の中に
落としていしまったものです。
須崎港には2個もありました、地元だは豆腐岩と呼んでいました。
てんちゃんがいる築城石も海から引きあげたものです。
説明文の看板をつけて皆さんに判るようにしています。
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08:55
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2015年04月17日
玉泉寺の屠殺木。
春に三日の晴れなしと言われます、昨日晴れましたがもう降りそうです。
そうは言っても大分温かになつてきました。
桜も牡丹桜が満開になりましたので終わりに近づきました。
さて、玉泉寺の境内です、米露の水兵の墓は後ろに少しだけ見えます。
看板のある後ろの木はハリスが滞在中に牛を屠殺のために繋いだ木です。
勿論二代目の木ですが、屠殺木と言われています。
お吉さんはハリスが風邪で熱を出したとき牛乳を買い求めましたが
境内には最初に牛乳を飲んだので牛乳の碑があります。
牛肉のために牛をつないだ木には看板だけです。
江戸時代は四足の動物は食べなかったので本格的に牛を殺して
牛肉を獲ったのはおそらくここが最初でしょうが牛肉の碑はありません。
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07:47
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2013年01月26日
2月7日は「北方四島の日」
大風で冷え込んできました、裏日本は大雪でしょう。
上空5000メートルに零下45度の年に1~2度しか来ない低気圧が
居座っているようですので、日本中寒さが厳しいでしょう。
しかし、この低気圧も明日には太平洋に出ますので回復するでしょう。
さて、写真は下田の長楽寺です、このお寺で日露通好条約通称下田条約が
1855年2月7日に調印されました。
ロシアはプーチャチン提督、日本側は川路幕府全権と条約を締結しました。
内容は択捉、国後、色丹、歯舞の北方四島は日本のものである条約です。
これを記念し「北方領土の日」が制定されました。
私も大会の日の委員ですが、釧路市からは鮭など他にも北海道のジャガイモも届きます。
内閣府や静岡県民会議などが後援ですが、盛り上がりは今一です。
ロシアは終戦後、武装解除した日本から奪い取った領土です。
森元総理が政府特使としてロシアに行くようですが、しっかり交渉してほしいです。
Posted by いそさん at
09:12
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2011年11月14日
ごめんなさい、紅葉は終盤でした。
昨日は天城山を越えていず、修善寺の近くの韮山城址に行ってきました。
田方平野は晩秋の季節に柿が鈴なりに稔っていました。
下田の温泉旅館、「ホテルいそかぜ」のいそさんです。
天城の紅葉を期待して車窓から眺めましたが、期待薄でした。
河津町湯が野付近のイチョウは鮮やかな黄色が映えていました。
さて、昨日は下田城の復元の会で後北条関係の城址の見学会です。
下田城は秀吉軍の小田原攻めのときの海賊城(海城の事、当時はそう呼んだ)で
前線基地でした、そこで会では北条五代の祖、北条早雲が住んだ
韮山城址を見学しました。
なにしろ戦国期の山城ですから、規模は大きくなくまた、
徳川の太平の城のような天守閣などの無い山城です。
早雲は小田原の本城には住まず、終生韮山に住み亡くなりました。
急峻な山城でしたが、正面に富士山の見えるいい場所でした。
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08:53
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2011年05月10日
テンちゃん便り(江戸時代の磯争い記念碑。)

今日も南西の風が強くなりました。
東北の被災地に吹き込む風です、風で砂埃がすごいでしょう。
さて、ぼくの立っている後ろには250年前の江戸時代
近隣の下田町と柿崎村との磯の境界争い勝訴の記念碑です。
江戸時代、船が難破するとその船の積み荷は地先の村が半分
とる事ができましたので、磯の境界は死活問題でした。
そこで境界争いが起き、須崎は天領地でしたので韮山の代官
江川太郎左衛門に訴えましたが、結論が出ないので江戸表まで
訴えました、その結果須崎の言い分が通り勝訴しました。
なにしろ250年前のことですが、村の記録として
とーちゃん区長が管理しています。
とーちゃんの家は代々「土屋傳兵衛」が襲名ですが、先祖も
村役で参加してます。
記録を読んでみますと、当時の村役も偉かったですが
村民も「分限帖」を作りその当時の収入に合わせ十等級に分け
村中がお金を出して裁判に勝ちました。
今の柿崎の砂浜のはずれから外浦の砂浜の手前まで須崎領
となりました、江戸時代は海水浴客などいませんし又砂浜では
海産物は取れませんので、子孫に豊穣の海を残してくれました。
家のとーちゃん区長もいろんな事をしているので名前が
時代に残りそうです・・・。テンちゃんより。
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09:50
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2010年11月08日
幕末の志士高杉晋作と吉田松陰。
今日は寒さが緩み、ポカポカ天気です。
地元の海老網は寒さが厳しくなると獲物が掛りませんので、漁師はホットしています。
下田の温泉旅館「海辺のお宿ホテルいそかぜ」のいそさんです。
松陰の生誕地は萩城下の外れの丘陵地で伊藤博文初代総理もこの近所でした。
萩城下、菊屋横丁の家老の子息高杉晋作の自宅の近くには
久坂や桂小五郎など歴史上の人物が沢山います。
萩市に高杉晋作の銅像が完成したそうです。
松下村塾に通っていた頃の若々しい20歳頃の写真を元にしたものです。
下田の平滑の獄舎では松陰は詠みました。
「世の人はよしあしごとも言わば言え、しずが誠は神ぞ知るらん」
この事件の後萩に帰ってから松下村塾を開き
門下生が日本の明治維新を推し進めました。
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12:35
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2010年11月07日
萩の松下村塾と吉田松陰。
「天高く馬肥える秋」まさにそんな季節になりました。
下田の温泉旅館「海辺のお宿ホテルいそかぜ」のいそさんです。
写真は萩にある松下村塾の内部です。
こんな狭い塾(教室)から幕末の志士や明治の元勲が輩出しました。
後輩の山口県からは明治以来7人の総理大臣が出ています。
陸、海軍の将官も多く出ております。
将軍乃木希典は松陰の従兄弟に当たります。
松陰の足跡をたどりますと北九州から江戸、東北の青森
師匠佐久間象山のいる信州上田、江戸、横浜から下田へ
交通機関の無かった時代とは言えよくも歩いたものです。
これらのことも広く国防のことや自身の見聞を広める為の行為でした。
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09:18
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2010年11月06日
萩市の吉田松陰と下田。
昨日からテレビでは尖閣衝突映像のネット流出で大騒ぎです。
やっと寒くなり朝の散歩も上着を一枚はおるようになりました。
下田の温泉旅館、『海辺のお宿、ホテルいそかぜ』のいそさんです。
写真は萩の松陰神社の松陰先生の肖像画です。
この日は松陰先生のご実家の杉家の現ご当主とお話を伺いました。
下田での松陰先生は1854年3月門弟の金子重ノ助と下田湾に停泊していた
米国軍艦に米国への亡命を申請しましたが、結果はご存知の通りです。
下田から唐丸駕籠で天城越えで江戸に行きました。
その時高輪泉岳寺の前で詠んだ歌
「かくすればかくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂」
今の政府の尖閣でのだらしなさを見ると情けなると同時に
松陰先生の高潔な心情に心打たれます。
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16:39
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2010年11月02日
歴史の町、下田と吉田松陰。
自然は大きいです、オホーツク海の低気圧に吹き込む西風が強いです。
今年も寒い西風が吹く季節になりました。
風は強いですがお天気は晴天が続きますよ・・・。
さて、下田での松陰先生はアメリカへの踏海(とうかい)の夢破れ
下田奉行所の牢に入りました。
このとき、流れ着いた伝馬船に残っていた踏海の書類を奉行所に届け出たのは
柿崎村の名主平衛門でした。
この名主の娘「イソ」が私のおばあさんです、私は孫ですので磯雄となりました。
松陰先生の句に
「親思うこころにまさる親ごころ、けふ(今日)の音(おと)づれ何ときくらん」
江戸小塚原の刑場で斬首にされますが、親を思い先立つ心情が溢れています。
やがて来る明治の足音が聞こえてくる時代でした。
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11:25
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2010年11月01日
下田の歴史散歩
台風一過の後は晴天になりますが、スッキリしません。
下田の温泉旅館「ホテルいそかぜ」のいそさんです。
下田の観光関係の中心の観光協会です、駅近くにあります。
ボランティアガイドの申し込みや出発もここからです。
下田は歴史の町で幕末の出来事は町の至るところにあります。
いちめい、寺町ともいはれています。
了泉寺はペリーとの下田条約締結の地、長楽寺はプチャーチンとの
日露和親条約締結、宝福寺は坂本龍馬、山内容堂、勝海舟と脱藩赦免の会談
海善寺は徳川家茂、徳川慶喜の泊まった寺、福泉寺はロシアとの談判
玉泉寺はハリスさんとお吉で有名な日本で最初のアメリカ領事館等々
下田はお寺だけでも歴史が生きています。
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08:53
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2010年10月31日
下田での坂本龍馬のこと。
昨日の台風は本州をかすめて行き、ナライの風は強かったですが被害は出ませんでした。
下田の温泉旅館、「ホテルいそかぜ」のいそさんです。
大河ドラマ「龍馬伝」も最後のクライマックスです。
最終回もちかずきましたが、「下田と龍馬」の出会いをお知らせします。
写真は宝福寺に立つ龍馬像と足元にテンちゃんがいます。
龍馬が下田の宝福寺で脱藩赦免をされた一年半後の元治元年六月
船の故障で下田港で立ち往生していた師匠の勝海舟の元に駆けつけた
坂本龍馬は一晩海舟と蝦夷地開拓の夢を話し合っています。
(勝海舟日記に載っている史実があります。)
下田の町には幕末の志士たちが闊歩していました。
ヨットマンに聞きますと下田は帆船では風待ちで無くてはならない港だそうです。
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18:14
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2010年05月20日
あじさい公園と下田城。
雨も小降りになりました、あじさい祭りもこんな日は風情があります。
下田の温泉旅館、海辺のお宿「ホテルいそかぜ」のいそさんです。
6月1日~30日まで、下田公園ではあじさい祭りが開催されます。
公園は黒船祭りの公式記念式典が行はれた場所です。
あじさい祭りには飲食店や売店が出店し賑やかになります。
公園全山が紫陽花が咲き誇り青やピンクの花が咲いています。
この公園全体が420年前、豊臣秀吉の小田原攻めの時の
北条氏の海防の海城でした、その当時の城主でなく城将として
清水康英の子孫22代目をおよびし座談会を開きます。
伊豆は北条早雲が平定し北条家を作り、その以前は源頼朝の足跡も
多く残っています。
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18:20
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2010年05月05日
開国下田のペリーロード。
連休は天気に恵まれました、磯辺でバーベキューや磯遊びで須崎も賑わいました。
下田の温泉旅館、海辺のお宿「ホテルいそかぜ」のいそさんです。
写真は昔、七軒町と呼ばれ女郎さんがいる花街通りでした。
今はペリー通りとして、観光のお客様が訪れスケッチや写真を撮っています。
幕末にはペリー上陸地から日米条約締結の了仙寺までペリー一行はパレードをして
入りました、儀仗兵は境内に整列をしました。
従軍画家「ハイネ」絵が遠征記の中に描かれています。
江戸時代、車が通る道ではないにしても、画面左側を歩き了仙寺に入り
日米条約を締結しました。
黒船祭りには、当時のままの扮装で調印再現劇が行はれます。
Posted by いそさん at
18:00
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2010年05月03日
テンちゃん便り(ぼくと下田龍馬伝)
すっきり晴れません、五月の鯉の吹流しのようにパッと晴れませんねえ・・・。
下田の温泉旅館、「ホテルいそかぜ」のテンちゃんです。
須崎街道に見事に咲いた山ツツジです、春を一段と感じますねえ・・・。
昨晩の龍馬はいかがですか、龍馬が脱藩を許されて歴史の日の当たる歴史に
登場するのはわずか10年です、龍馬は誕生日が命日で暗殺されました。
下田での龍馬ゆかりの地を巡る旅、が好評を博しています。
コースは約2時間位です、モデルコースを記します。
宝福寺(海舟・容堂会談の寺)~なまこ壁の家(なまこ壁は幕末、幕府が行った町修景事業)
~大川端(海舟・龍馬の上陸地)~角谷(竜馬が泊まった宿)~安直楼(お吉の経営した店)
~ペリー上陸の地~ペリーロード~了泉寺(日米条約締結の寺)~吉田松陰拘禁の跡
~下田屋旅館(松陰の泊まった宿)~住吉楼跡(海舟の泊まった宿)
~欠乏所跡(黒船の乗組員と市民の欠乏品の交換所)など・・・・。
下田の歴史を肌で感じて下さい。 テンより。
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20:00
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2010年04月29日
テンちゃん便り(下田での龍馬の足跡)
朝は曇っていますが、連休中は良い天気らしいです。
下田の温泉旅館、「ホテルいそかぜ」のアイドル犬、テンです。
下田湊の前方の沖を指差す「吉田松陰主従」の像は「踏海の企て」をした
柿崎、弁天島にあります、お吉、ハリスの悲話がある玉泉寺はすぐ近くです。
坂本龍馬の脱藩についての談判は宝福寺でした。
下田は風待ち港ですから、海が荒れてか、大風で船が出れなかった時の事でしょう。
土佐藩主、山口容堂は宝福寺を宿舎としていました。
幕府軍艦も勝海舟、坂本龍馬を乗せ下田湊に風待ちに入港しました。
そこで勝安房守は、宝福寺に乗り込み「龍馬脱藩の許し」を請いました。
この時容堂は鯨州と号する位酒が強く、勝は酒が飲めなく大杯を飲み干せば
龍馬の脱藩を許すと言う有名な談判が行われました。
その間、寺の近くにある住吉楼には、龍馬が角谷旅館には海舟が泊まっています。
ちなみにこの前後、吉田寅次郎松陰も下田や旅館にわらじを脱ぎました。
ぼくは台座の下のほうにいます、見てね・・・・テンより。
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20:00
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2010年04月26日
テンちゃん便り(龍馬と半平太。)
やっと初夏のようなお天気になりました、それにしても雨と寒さは異常です。
下田の温泉旅館、「ホテルいそかぜ」のアイドル犬、テンちゃんです。
テレビの龍馬伝では、いよいよ武市半平太が切腹されるシーンに入ります。
文久2年1月15日、龍馬は長州に行って久坂玄瑞と会談して武市半平太(瑞山)への
手紙を託され土佐に帰り半平太に届けました。
その2ヵ月後に龍馬は土佐藩を脱藩します。
幕末は志士たちが大勢憤死しました、久坂玄瑞は蛤御門の変で死亡しました。
吉田松陰の一番弟子でしたから歴史に「もし」はありませんが龍馬、半平太、久坂玄瑞
など生き残っていたら歴史はかわつていたでしょう。
この後、維新回天の時代下田の宝福寺で土佐藩主山口容堂と龍馬の師匠勝海舟が談判し
下田の地で脱藩を許されたのです、その後龍馬は時代に飛翔しました。
ぼくの家はこの頃はすでに建っていました。
回船問屋でしたが夏は涼しくていいですが、暖房は無いので寒い家です。 テンより。
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20:00
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2010年04月08日
伊能忠敬隊・・・須崎に来た。
昨日は天皇陛下のお出迎えで何かと忙しい一日でした。
下田の温泉旅館、海辺のお宿「ホテルいそかぜ」のいそさんです。
写真はホテルの食堂の屋根越しに伊勢海老網の出漁に出る伝馬船を写したものです。
注目したいのは正面先端の岬に江戸時代「灯明場」今で言う灯台の役目した施設がありました。
又この屋根の下には1606年江戸幕府は、「入り鉄砲、出女」対策のため「遠見番所」を
作りました、大阪周りの回船も仙台周りの船も房州をまわって須崎で調べてから江戸に行きました。
そんな古い歴史のある地ですが、伊能隊は須崎に泊まり須崎の船で伊豆七島の測量に出ました。
その測量の基点になる位置がこの「灯明場」で伊能忠敬館の実測図に赤い星の印がありました。
時代が下がりまして、日露戦争の時には海軍の見張り所になりました。
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20:00
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2010年03月31日
下田での吉田松陰。
お天気は良くなりましたが、空気はひやりと冷たいです。
下田の温泉旅館、海辺のお宿「ホテルいそかぜ」のいそさんです。
下田市柿崎、玉泉寺の近くに建つ吉田松陰像です。
戦前、賀茂校長会が建立しました、国威発揚の時代でした。
時代を反映して大刀を杖に下田湾を見つめている構図です。
松陰ブームは幕末と戦前にありました、時代によって翻弄されます。
「至誠の人、吉田松陰」は天保元年(1830ねん)180年前に生まれました。
1859年安政6年安政の大獄で江戸で処刑されて150年になります。
私は萩市で松陰は杉家から養子に行きましたが、そのご子孫と面会し
お話をしましたが、やはり教育者でした。
Posted by いそさん at
20:01
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